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主题: 揭秘二战日本第一窝囊废师团,大战前集体装病(转贴)
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作者 揭秘二战日本第一窝囊废师团,大战前集体装病(转贴)   
所跟贴 揭秘二战日本第一窝囊废师团,大战前集体装病(转贴) -- oio - (2167 Byte) 2007-9-27 周四, 上午7:02 (228 reads)
沙人
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加入时间: 2006/05/26
文章: 1307

经验值: 4031


文章标题: 在巴丹战役有出色表现 (190 reads)      时间: 2007-9-27 周四, 上午7:55

作者:沙人罕见奇谈 发贴, 来自 http://www.hjclub.org

【質問】
一般に,上方の兵隊は弱いと言われ,
「またも負けたか八連隊,
それでは勲章九連隊」
と,彼らを揶揄(8連隊は大阪,9連隊は京都)する言葉まであり,日露戦争以来,日本一弱いと評判だったが,大阪の第4師団,通称「淀兵団」は,本当に日本一弱い師団だったか?

【回答】
旧陸軍歩兵第八聯隊は“負け戦を経験していない”精強な部隊であり、またも負けたか8連隊の俗謡はまったく根拠がない.

明治維新後、それまで藩が独自に持っていた軍隊は日本国の軍隊として再編成され、師団の前身である「鎮台」が置かれるようになりました。大阪に鎮台が置かれたのは明治4年8月。俗謡にうたわれた歩兵第8聯隊(以降、8連隊と表記)は、明治7年5月14日に編成を完結しています。
当時、大阪鎮台以外の鎮台には士族出身者が多く定着していましたが、大阪鎮台には士族出身者は少なく、町人・百姓出身者が大半を占めていました。

創設間もない明治7年には「佐賀 の乱」に出動.
明治10年に起こった西南戦争には、8連隊も動員されました。九州の各地を転戦し、明治天皇から「勇戦劇闘ご嘉賞」の勅語を賜るほどの戦果を挙げています。
ちなみにこれは全日本陸軍の歴史上空前絶後の快挙であって、後年、軍司令官クラスが各部隊にしばしば授与した感状より遥かに価値の高いものです。

にも関わらず、どうもこの頃あたりか ら「またも負けたか8連隊」の俗謡が、民間から伝わり始めていました。連隊の将校をはじめ下士官・兵達は、俗謡の悪宣伝を消すために猛訓練に明け暮れたことが連隊史にも残っており、その後第二次大戦の終戦に至るまでの戦歴をみても、部隊として戦闘に敗れたという記録はついに発見できないのです。

唯一、負け戦とこじつけることのできる戦闘があったとすれば、後にも先にも西南戦争以外には見当たらないといわれています。薩摩隼人が白刃をかざして斬り込んでくるのを目の当たりにしては、商人や町人出身の兵隊がたじろぐのは、むしろ当然ではないでしょうか。当時九州・小倉に駐屯していた歩兵第14連隊、すなわち乃木希典が率いる部隊でさえ軍旗を奪われているほどなのです。ことさら大阪の兵隊だけが「弱い」と非難される筋合いはないでしょう。
結局「またも負けたか8連隊」の俗謡が発生した時期は、西南戦争の頃であっただろうと推測されるだけで、決め手となる確証は得られていません。

(おきらく軍事研究会)

この第4師団について,「現代史研究」第7集の中で,関幸輔は
「(前略)昭和14年7月,ノモンハンで日ソの激突が重大危機に陥り,逆上した関東軍が,北満国境駐屯の仙台,大阪両師団に応急動員下令,出動を命じたとき,仙台第2師団は勇躍出発,ハイラルより徒歩行軍4日間で現地到着,先遣部隊たる新発田16連隊の如きは,直ちに戦闘加入勇戦奮闘したのに反して,大阪第4師団は出動下令されるや急病人激増,何とかして残留部隊に残ろうと将兵が右往左往し,怒った連隊長が医務室へ出向き,自ら軍医の診断に立ち合う始末.
やっと出動部隊を編成したまではよいが,ハイラルから現地までの行軍では,大阪師団は1週間を要し,しかも落伍兵続出.
現地にやっと先遣隊が到着したら,日ソ停戦協定成立.
途端に元気が出た浪花っ子の面々,口々に戦闘に間に合わざりしを残念がり,落伍した将兵は急にシャンとなって続々原隊復帰.帰りの軍用列車では一番威勢がよかったというおとぼけ師団であった.
(中略)
太平洋戦争開始されるや,使い場がなく,結局大本営直轄の南方軍予備という名目で,上海付近でブラブラしながら待機.
17年4月,フィリピン戦線で上陸以来苦戦する16D〔師団〕,65BS〔旅団〕を助けるため,5D, 18D, 21Dの精鋭師団の選抜歩兵連隊と共に増加派兵されることが下令されるや,今度こそ一巻の終わりと,青菜に塩の部隊は力なく上海からフィリピン戦線に向かったが,このときのバタアン第2次攻撃には,日本軍は強力なる砲兵団,航空部隊を準備し,本格的な立体攻撃を実施したため,大阪師団は軍主力の一翼となり,ビクビクしながら進む内に,弱り切った米比軍が勝手に白旗を掲げて降伏してくれ,またも停戦成立.
始めての勝ち戦に有頂天になったおとぼけ師団の将兵は,まるで自分達でバタアンを占領したような大法螺を吹きまくり,郷里大阪では号外が出る大騒ぎになった(後略)」
と書いている.

だが,昭和13年から14年にかけて第4師団長であった沢田茂(中将)は,これを
「全く根拠のない風説」と否定する.「ノモンハンへの動員令を受けたときは,広い地域に分散していたので,集合に時間がかかったのです.
どの戦闘でも,第4師団は常に勇敢でした」
バタアン第2次攻略戦の記録を見ても,第4師団は決して「ビクビクしながら」進んではいない.殊に4/5のサマット山,カボット台の戦闘では,敵の激しい砲撃を受けながら一歩も退かず,右翼隊,左翼隊の挟撃により,米比軍第21師団長・カピンピン将軍以下700名を捕虜にしている.

軍司令官から一兵卒まで,皆「お国のために」戦うのだが,上級の軍人が純粋に国家を思うのに対し,兵隊は常に郷土を意識し,郷党に対して申し訳の立つ行動をしようと心がけた――と舞伝男は語っている.もしも卑怯な行為をしたり,捕虜になったりしたら,両親始め一族が町や村で人に顔向けもできなくなることを,兵達は極度に恐れた.
また,金鵄勲章の手柄を立てれば,一族だけでなく,村や町の名誉とされた.
このことから,都市部住民から徴兵された兵団は,そうでない兵団に比べて郷土意識が弱く,そのために相対的に弱兵となったのではないか.角田房子はそう想像している.

また,大阪の兵団には,
「無益な犠牲を出すのは阿呆だ.不合理な戦闘は嫌だ」
という特殊体質があった――という説がある.
第4師団はバタアン第2次攻略戦で勇戦し,武勲を立てたが,その合理性のためか,戦力はあまり低下しなかった.

5/5,コレヒドール島へ向かう第一陣を出航地まで激励に来た本間は指揮官・佐藤源八大佐に,
「バタアン戦以来,貴隊の再三の奮戦には感謝している」
と,既にその武勲を称えている.
そしてコレヒドール要塞攻略戦でも第4師団は勇戦,同要塞を13時間で降伏させることになった.

詳しくは角田房子著「いっさい夢にござ候本間雅晴中将伝」(中央公論社,1972/9/9), P.206-208を参照されたし.



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